降りたとかそんなのではなくて、

 わたしが生まれてはじめて舞台をみてすきになった某さんがいる。年齢はわたしより3つ上。今はその方じゃない人に力を入れているのだけれど、某さんにふと思い立って年末の真夜中、2017年に日付が変わる直前にお手紙をかいて投函したことを思い出して、ちょっと振り返ってみる。

 

 某さんのお顔は、とてもきれい。
 演技ではなく外見からほめるなんて、と思われるかもしれないけれど後々の話につながるので先に書いておく。肌がとにかくきれいで、荒れたことがないととあるイベントでお話しさせていただいたときに聞いたことがある。肌は遺伝ととあるSNSでみたけれど、そうだとしたらご両親に感謝するくらいに某さんはお肌も目の色も髪の色もきれいなひとだった。完璧すぎない、どこかアンバランスささえも感じる二重の幅がとても魅力的な方だと思う。
 わたしが某さんをはじめてみた舞台で、まず気になったのは声だった。演技とかではなく声で、空気を震わせるまっすぐな声にぴんとお腹から出す声というものはこういうものなのかと思ったほどだった。演技のうまいへたは素人のわたしにはわからないけれど、それでも某さんの演技はすてきだった。
 某さんの演じた役はその方によく似合う役だったと思う。しかしイベントなどで見る某さんをみればみるほど、あの役は似合うけれどもともと某さんの中にあった性質?性格?とはかけ離れた役だったのだと気づいた。そう思うと彼の演技はうまかったのかもしれない。

 

 わたしが某さんのイベントにはじめていったのは、彼が誕生日に伴い開催されたイベントだった。お誕生日おめでとうございます、という言葉と共に手渡した手紙と言葉を某さんは頷いて聞いて笑ってくれた。わたしはそれがとてもうれしくて、某さんを今後も応援できればなと感じるほどだった。一緒に撮っていただいた写真は、いまも記念にとってある。少し距離が近すぎるから、一歩わたしが距離を置いて写真を撮ってもらった。その時のわたしの緊張した顔が気持ち悪いなと思った。
  某さんは舞台で一生懸命だった。ほかの出演者さんがベテランであればあるほど某さんは頑張っていたと思う。それは某さんの発する様々な場所からの声で、そう感じ取れたし、なにより実際に観に行ったわたし自身がそう感じたのだ。某さんを応援する人として、ちょっとフィルターがかかっていたのかもしれない。それでも、某さんの演技は好きだと思った。

 

 その一方で、ある時期から某さんの舞台出演はがくんと落ちてイベントがメインになった。わたしは、そのイベントが実は苦手だった。
 某さんのご出演されるイベントは、いわゆる色恋商法が盛んな場所だった。来てくださるお客さんに対して、恋愛感情を抱かせるような言葉やしぐさを多くするような場所だった。甘い言葉をささやき距離感をぐっと縮めて写真を撮る。わたしはそれが実はとても苦手だった。イベント側の方のなかには、きっとお気に入りの人が相手だからだろうか。キスをしたり、抱きしめながらずっとささやいている人もいた。薄暗い密室状態の場所で行われるそれが、ひどく気持ちが悪かった。気持ちが悪いといえば言葉がわるいが、居心地が悪いのは確かであった。しかし直接言葉を伝えられるイベントは、わたしにとって某さんに感想を直接伝えられる唯一の機会であった。だから1度だけお写真を頼み短く感想を伝えることを繰り返していた。イベントでお写真を撮ることはわたしにとって記念であり苦痛であった。

 

 某さんにはたくさんの女性ファンがいる。年齢の幅は広い。そして某さんのファンに対する対応も様々だと参加していくうちにわかっていった。
 にぎやかで若いファンの無茶振りにも笑顔で応えるけれど、そのファンが背を向けると笑顔が消えたこと。恰幅の言いファンと少し距離を置くこと。何度か見たことのある大人しいファンには、接近をすること。これはファンの顔ではなく、ファン自身の態度もあるのだと気づいていった。
 わたしは大人しいファンとなんとなく察していたのだろうか、接近をして感謝を述べられたりポーズもやや大胆なものが多くあった。でもわたしはそれが苦手だった。きっと某さんに恋愛感情を抱くファンや、それに近い感情を抱くファンであればうれしかったのかもしれない。けれどわたしが好きで応援したいのは役者である某さんであって、こんな風に自身を安売りするように体を近づける某さんではなかった。
 その一定の線を越えた瞬間に、わたしは舞台から降りた某さんに対しての興味がひどく失われていった。それと同時に、わたしは舞台の上のきらきらしたものに憧れていただけだったのかと、某さんではなく自分自身になぜかひどく落胆した気持ちになったことを覚えている。

 

 わたしは某さんがすきだったと思う。それは舞台の上の某さんだ。
 某さんがご出演された、とある舞台はひどいものだった。それでも観た。某さんがとあるファンを贔屓していたことも知っている。少し女性問題で薄暗い部分があることも、なんとなくではあるが知っている。
 その一方で、某さんのお若いファンが某さんをストーカーじみた行為をしていることも知っている。なにかと女性問題で取り上げられがちな界隈であるにも関わらず、某さんの薄暗い部分を取り上げる方がいないこと安心をしている。
 あの恋愛を強く演出するような接触方法を続ければ、いつか某さんが傷つくようなことをされるのではないかという心配もある。とあるアイドルが刺された事件をテレビでみたとき、某さんのイベントに今後二度といかないだろうと思い立ってしばらくしたころだった。ぼんやりと、某さんやあのイベントを続ける人々を思い出した。某さんをはじめ、あの密閉空間にいた方々は、あの薄暗い空間のなかで何かに酔っているみたいだった。わたしもどこか酔う気持ちだった。あの事件のようにならないことを、いまも祈っている。

 

 わたしは二度と某さんのイベントにはいかない。でも某さんが舞台に出演されることが決まれば、チケットをとる。だって某さんの演技はすきだから、わたしは舞台の上の某さんをみたい。けれど、某さんがわたしにとっての1番ではないとたくさんの時間をかけて考えた。お金と時間をかけた分、長い時間がかかってしまった。でも、それは「かけてあげた」ではないのだ。「わたし自ら某さんを応援したい」と思ってかけたものだ。すべてはわたしの選択だった。
 けれどこれはボランティアではない。お金も時間もかかる趣味だ。だからこそ、わたしは某さんが1番ではないという決断をした。

 

 某さんはしばらく舞台に出ていない。新年になってもまだ、情報解禁はない。このまま某さんは薄暗い空間にいるのかもしれない。けれど、某さんの演技は今後もみたい。
 1番ではないから、それを理由にわたしは某さんの「ファン」であるか疑問を感じるままだ。この疑問を去年のうちに晴らすことはできなかった。単推しに美学を感じるわけではないけれど、わたしにとっての1番と2番には雲泥の差がある。その差はわたしがかけるお金と時間でもあるし、その方へかける情熱と期待でもある。僅差なんて言葉ではない。天と地なのだ。

 

 某さんはうつくしく、お若い。まだまだ俳優というカテゴリーで生きる人としては、まだお若い方なのだと思う。これからまだまだ吸収して学んで、某さんの演技を確立していってくださればいいなと思うほどだ。
 あのきれいなお顔は、一般受けだってすると思う。舞台という狭い世界だけではなく、テレビなどでもご活躍できるのではないかなと思うほどだ。背丈や体格というのは生まれ持って恵まれたものだとするのであれば、某さんはとても恵まれている方だと思う。名前を挙げることは、こういったファンがいると知られると某さんの足を引っ張るようで申し訳ないのでしない。けれどさいしょに書いたように、某さんはとてもうつくしいお方だ。今年ますますご活躍されることを、心から願っている。

 

 年末にいま1番に応援する方と、某さんへお手紙を出した。
 応援する方へ対しては、これからも応援する旨を。某さんには、これからご活躍されることを願う内容と、今後舞台にご出演されるのであれば必ず行きますと。
 お手紙を読むか、そもそも受け取るかもわからない。けれどイベントにもいかないと決めたわたしに残された方法は、これしかないのだ。

 

 某さん、今年もご健康でますますご活躍されることをお祈りしております。いつかまた舞台に出てくださるのであれば、お手紙に書いたように必ず演技を見に行かせていただきます。
 そして応援する方に関しましては、今年も俳優として、そして個人として様々な分野でご活躍されますよう、微力ではありますが応援してまいります。